ビバルディの転換期(ピエタについて)

今日は、ビバルディの人生における転換期の中でも、まずはその前半部分についてや、作曲家として有名になるきっかけとなったピエタについて書いていきます。

<ビバルディの転換期>(前編)

1703年 ビバルディはようやく念願の司祭に任命されますが、持病の喘息ため、ミサを司式することができなかったそうです。
そこでビバルディは、止むを得ず半年でその職を辞任し、同年9月ベネチアにあった孤児院兼音楽学校、オスペダーレ・デッラ・ピエタ(ピエタ養育院)のバイオリン教師となりました。

ピエタ養育院は、現在は存在していませんが、ビバルディが属していた時代は、当時孤児院兼、音楽院の機能を成す機関でした。
その由来は、じつに1346年にまでさかのぼります。

また、当時の孤児院は、少し変わった特徴がありました。
もちろん基本は慈善で孤児や棄て子を養育するための機関でしたが、音楽の才能が認められた者は(女子に限る)、10歳になるまでに集中的に音楽の教育を受けた後、付属音楽院の「合奏・合唱隊」のメンバーになった、と言われます。

この孤児院も、実はビバルディが音楽教師の座につくまでは、施設の運営資金が不安定な状態でした。
ところが、合唱隊、音楽院の演奏会(協奏曲、室内楽曲)が盛んに上演されるようになり、ヨーロッパ中でそのレベルの高さが話題を呼び、ついには、貴族や市民からの寄付金が多く集まるようになります。

さらに、この間に、ビバルディは特に才能のある者を弟子とし、有能なバイオリニストを要請しました。
これについては、当時のヨーロッパ中が、ビバルディとその弟子達に絶賛を博した!とまで言われております。

今でも世界中で愛されているビバルディの音楽の多くは、まさにこの施設の生徒達、弟子達の音楽教育、練習用のために書かれた作品であり、それが世に現れるきっかけとなったのです。

ビバルディは音楽教師、演奏家であるだけでなく、この頃から、更に作曲家としても花開こうとしていた時期でもありました。