ビバルディのバイオリン協奏曲「四季」の特徴

ビバルディのバイオリン協奏曲<四季>の特徴について

ビバルディが作曲した「四季」は本来、全12曲のバイオリン協奏曲集から構成されており、各協奏曲は各々3楽章の形式で構成されており、有名な(春)、(夏)、(秋)、(冬)はこの内の4つの協奏曲となります。

なお、「四季」という題名はビバルディ自身の命名ではないと言われております。

楽器編成は、独奏バイオリン、第1、第2バイオリン、ビオラ、チェロ、チェンバロ、コントラバスなどの通奏低音が主体とされています。

特徴的なのは、各々の楽章には、「ソネット」が付随されており、季節感、情景、状況などの雰囲気を音で表現する描写的な楽譜内容となっているところです。

ソネットは、プロバンス語に由来し「小さな歌」という意味で、13世紀には厳格な押韻構成(特別な効果を起こさせるための関連と響きを持つ形式)と特定の構造を持つ14行の詩を意味する扱いとされ、「四季」においては素朴な自然、理想的な広野(田園)を表すなどの効果がもたらされています。

更には、かつて東方海外への進出などで覇気にあふれ栄華を極めたベネチア貴族達が、より精神的な充実と豊かさを求める傾向にありました。

その結果、内陸や地方の別荘などで田園生活を好むようになり、ベネチア貴族達の憧れがビバルディの当作品「四季」に織り込まれており、この時代の世上をうまく反映させ、ビバルディが創作している点にも驚かされる一面があります。

ビバルディの協奏曲集「四季」の誕生

今回からしばらくの間は、ビバルディの代表作でもある、協奏曲集「四季」について、詳しく書いていこうと思います。

ビバルディの協奏曲集「四季」の誕生

ヨーロッパの各都市へ演奏旅行を繰り返す最中、1725年にフランスの ルイ15世(1710~1774年)の結婚を祝うセレナータ「栄光と結婚」を作曲し、フランス宮廷に3曲のセレナータを献呈しております。

セレナータは、1700年代頃に当時の作曲家が自分達のパトロンである王族や貴族に敬意を表する為に、こぞって作曲し献呈されていたと言われる小規模なオペラ様式の曲で、ビバルディのこれら3曲のセレナータもフランスのベルサイユ宮殿などの豪華けんらんな会場で演奏されたとものと考えられております。

そして現代において、バロック音楽を知らない人でも一度はどこかで聞いたことがあり、誰もが馴染みを持っていると言われている<和声法とインベンションの試み「四季」>を、同年の1725年に出版しております。

ビバルディがこの曲を創作した背景には、ベネチアを拠点に華やかなパリをはじめヨーロッパの近隣都市へ頻繁に演奏旅行で各地を移動する際に、行き先々の地方の季節感や当時の人々の生活感を常々感じとる機会にも恵まれ、自然に触れ合い躍動感にあふれた音楽で「自然」を表現する感性が研ぎ澄まされていったことが影響しているものと考えられます。

ビバルディの生涯~マントバからベネチア、そして各地へ

ビバルディの生涯
<マントバからベネチア、そして各地へ>

マントバで成功を収めたビバルディは、1720年にマントバをあとにしますが、以後もマントバではビバルディの作曲したオペラが上演され、当時の人気ぶりをしのばれます。

またこの頃からビバルディは、なおも自身の作品を更に広めようとベネチアから各都市へ演奏旅行に出かけるようになり、1721年には、歌劇「試練の中の真実」(RV.739)をミラノで上演しております。

このようにベネチアから主要都市へ演奏旅行を頻繁に行うさなか、1723年から1724年に2度に渡りローマを訪れており、この滞在中に教皇に招かれバイオリンの演奏を披露する機会に恵まれるなど、この頃のビバルディの生活はさぞ自信と栄光に満ちた年月であったことであろうと思われます。

一方、この頃のベネチアでの活動としては、ピエタ養育院との関係が継続されており、演奏会や音楽学校の稽古用に新たに創作した協奏曲などを定期的に提供するなどして、ピエタ側と台頭に契約を成立させていたことから、ピエタ養育院も既にビバルディがその時代を一世風靡した偉大な音楽であることを認知していたものと考えられます。

ビバルディのカンタータ(4)

ビバルディのカンタータ(4)

前述でご紹介したカンタータ自身の形式変化は、ビバルディのカンタータよりも少々前にアレッサンドロ=ストラデッラ(1644-1682年)などによって体系化されたと言われております。

またビバルディとほぼ同時期に活躍し、前述のイタリアバロックオペラでも登場したアレッサンド=スカルラッティ(1660-1725年)の作品でこの形式が見られます。

スカルラッティは、その生涯において約600曲程のカンタータを残していますが、約500曲程はソプラノの独唱と通奏低音の作品になります。

なお、1703年頃から作曲したカンタータでは、2曲のダ・カーポ・アリアの前に各々レチタティーボを伴う楽章編成を基本に構成しています。

これが18世紀を通して世俗カンタータの標準的な様式とされ、更には半音階的な和声、または大胆な展調による豊かな表現にてより形式化されていくことになり、少なからずビバルディもこの影響を受けたのではないかと考えられます。

なお、ビバルディは1720年までマントバに滞在することになりますが、この間に作曲されたカンタータを更に6曲ほど記します。

19.「お前の心はよくわかる」RV.669、
20.「春風は草を渡り」RV.670、
21.「不実な心」RV.674、
22.「涙と嘆き」RV.676、
23.「黄金色の雨のごとく」RV.686 

などがあります。

ビバルディのカンタータ(3)

ビバルディのカンタータ(3)

マントバでのビバルディは、病弱な身であったにも関わらず1719年に歌劇「ティート・マンリーオ」(RV.738)を創作するなど、ベネチアよりも意欲的な作曲活動が見られたようです。

実際、「ティート・マンリーオ」は長編オペラとなる作品でしたが、わずか1週間内で創作し、手書きの楽譜を完成させたとの逸話が残っています。

なお、ビバルディがマントバでカンタータを作曲したのは18世紀初期でしたが、まさに17世紀後半から18世紀初期には、音楽全般の形式がより進歩した時期でもあり、近代的な要素が目に見えて表現されるようになります。

一方、この動きに連動してカンタータ自体も、レチタティーボとアリアがより識別化される傾向になり、アリアは1つの独立した楽章形式となって、より広がりをみせる構成になっていきました。

また以下に、ビバルディのカンタータを更に6曲ほど記します。

13.「遅かったのに」RV.662、
14.「小枝に戯れ」RV.663、
15.「心なく生きるも」RV.664、
16.「物思いにふけらず」RV.665、
17.「憧れの瞳よ」RV.666、
18.「天に紅の光立ち」RV.667、

などがあります。

ビバルディのカンタータ(2)

ビバルディのカンタータ(2)

ビバルディがマントバで本格的にカンタータの創作活動を開始する以前より、ローマではカンタータが最も盛んに演奏される聖地となっていました。

この背景には当時ローマを中心に繁栄していたごく限られた僅かな貴族階級層が、好んでカンタータを鑑賞する習慣があったため、作曲家達はこぞって演奏会を催すなどして互いに実力を競い合い、また貴族層らも自らが出資者となり、オペラ劇場では失われようとしていた音楽の優雅さを求めるなどの傾向があったからだと言われております。

一方、マントバにおけるビバルディの務めは、けして宗教的な要素のみに片寄ることなく、フィリップ公の栄誉をたたえる創作活動であったことから、これらの背景を踏まえると、かつてローマで開花したカンタータをビバルディがなぜその多くをマントバで作曲したのか、その理由がよくお分かりになるかと思われます。

さて、以下にビバルディのカンタータを更に6曲ほど記します。

7.「涙の泉、今ぞ泣け」RV.656、
8.「立ち去る波のざわめきに」RV.657、
9.「生まれついたる厳しさで」RV.658、
10.「山鳩を求めて空しく」RV.659、
11.「蝶々は舞う」RV.660 、
12.「愛しきお前と別れて」RV.661

などがあります。

ビバルディのカンタータ(1)

ビバルディのカンタータ(1)

17世紀の後半、当時のイタリアにおけるカンタータは、人間の肉体や魂が擬人化されてが登場する倫理的な作品もあり、音楽劇のシナリオともなったモチーフが用いられる場合もありましたが、その大半は牧歌的または歴史的な題材をモチーフにした恋愛を扱ったものが主体とされていました。

さて、ビバルディのカンタータにおいては全部で23曲程が知られておりますが、そのうちのまず6曲を以下に記します。

1.「美しいぶなの木陰で 」RV.649 、
2.「見つめた時に」RV.650 、
3.「愛よ、お前の勝ちだ」RV.651、
4.「そよ風よ、お前はもはや」RV.652、
5.「哀れなわが心」RV.653 、
6.「エルヴィーラ、エルヴィーラ、我が魂よ」RV.654 、
6.「夜も更けて」RV.655

などがあります。

なお、基本的にこれらのカンタータはオペラにも似ていましたが、歌い手に演技等の演出効果が持たせる構成は無く、音楽・歌詞のいずれにおいても創造的な世界がかもし出されているのが特長であると言われております。

カンタータとビバルディの功績

カンタータとビバルディの功績

1716年ベネチアにて初演されたオラトリオ「勝利のユディト」が成功を治めたにも関わらず、ビバルディは1718年にピエタ養育院の音楽教師としての契約を成立させることができなく、止むを得ず新展地マントバへ赴くことになります。

マントバでは芸術、とりわけ音楽をこよなく尊重したと言われたヘッセン=ダルムシュタット方伯のフィリップ公より宮廷楽長として迎えられました。
またこのマントバでビバルディは多くのカンタータを創作しており、ここでもヨーロッパ中に名声を広げていくことになります。ここでは、まずカンタータについて触れておきたいと思います。

カンタータとは、独唱、合唱などに器楽や管弦楽による伴奏付の大規模な声楽曲となります。典型的なカンタータは、ビバルディがマントバで活躍した半世紀程前にさかのぼる17世紀の後半にイタリアで作曲されたレチタティーボとアリアからなる独唱と通奏低音のための歌曲であったと言われ、初期の頃は様式的に確立していなく、単一のアリアからなる「アリエッタ・コルタ」と、歌詞に応じてアリアとレチタティーボが使い分けられる「アリエッタ・ディ・ピウ・パルティ」とに分類されております。

ビバルディとオラトリオの創作2

ビバルディとオラトリオの創作2

ビバルディのオラトリオとしては、さらに次にあげる3つの作品が上げられます。

作品番号順にオラトリオ「ファラオの神モイゼ」RV.643 、「東方三博士による嬰児イエスへの礼讃」RV.645 、「教皇ピウス5世の予言した海戦の勝利」RV.782などがありました。

なお、「ファラオの神モイゼ」は、「勝利のユディト」初演の2年前1714年に作曲されており、これはピエタ養育院での教職者としての関係回復にあたり、まさにピエタのために作られた作品であったと言われております。

しかし残念ながらシナリオ以外は現存していなく、今ではこの作品の詳細を知る由もありませんが、「勝利のユディト」と同様に当時の聴衆をさぞ魅了させたことでしょう。

これを裏付けるのが「勝利のユディト」の楽譜上に見られる楽器編成にあると考えられます。ここにはピエタの音楽学校で使用されていたと思われるあらゆる楽器(ビオラダモーレ、シャーリモー、テオルボ、リコーダを含め)にて編成されており、これはあらゆるビバルディの作品に見られる当時としては奇抜、奇妙とさえ言われた斬新な発想の試みを披露することで、より多くの聴衆を引きつけようとしたビバルディ自身の意思のようなものを感じとることができるからでしょう。

ビバルディ、オラトリオの創作1

ビバルディ、オラトリオの創作1

ビバルディは、前述でも触れておりますように執筆の手を休めることなく精力的にオペラの創作活動を継続していきますが、1716年頃になるとピエタ養育院での音楽活動よりも、劇場を中心にオペラの作曲に力を注いでいたと言われております。

これを背景に、同年にオラトリオ「勝利のユディト」を作曲し、これが成功を治めると教師の立場を回復していくことになり、更にこの年ピエタ養育院の合奏長に就任しております。

この背景には、当時のベネチアが軍事的に重大な局面を抱えていたことが関係していました。

日々オスマントルコとの戦況が悪化し、敗戦の寸前を迎えていましたが、「勝利のユディト」が上演された頃には、戦況は一転しベネチアの勝利と栄光を称える作品として、晴れやかに演奏されたと言われております。

シナリオは、ユディト(古代ユダヤの信心深い女性として知られる)を、ベネチア共和国に例え、ホロフェルネス(アジア南西にあった古代帝国アッシリアの大将)をオスマンに見立てた構成とされており、唯一完全な楽譜が残されているオラトリオとなります。

この様に機転よく、時代背景をうまく利用して、自己の形勢までをうまく変えてしまうビバルディはなかなかの知恵者でもあったようです。

ビバルディとオラトリオ

ビバルディとオラトリオ

ビバルディが協奏曲やオペラ創作の絶頂期において、これらの分野以外にも作曲活動の功績が見られます。
ここではそのうちの1つであるオラトリオに焦点をあててみたいと思います。

オラトリオは、元々ローマ・カトリック教会に由来する宗教的な音楽であり、聖書などから引用した語句を多く用い、これらを多様な曲調と組みあわせ劇風に構成された歌劇の一種となります。

基本的にはオペラと類似していますが、演技などの演出はなく、また劇場で使用されている大道具、小道具、衣装などの装飾を用いないのが基本とされております。

またオラトリオの語源は、教会などに設置された、神に祈りを捧げるための間(部屋)を指しており、ここで執り行われるようになった修養にマドリガーレやカンタータなどが取り入れたことによって、オラトリオの形式が生まれたと言われております。

なお、修養とは協会の聖職者と敬虔な信者が祈祷・説教・聖書の朗読・宗教曲の歌唱からなる宗教的な取り組みを行うことで、礼拝などの行いではなことから、その形式は自由で、世俗的な要素が取り入れられていたと考えられています。

この点、ビバルディ自身ピエタの教職者であったことから、普段から宗教音楽の演奏、作曲に恵まれた環境にあり、歴史的にも大きな遺産となるオラトリオの創作ができたものと思われます。

バロック時代後期のオペラ(15)ビバルディのオペラとは

バロック時代後期のオペラ(15)
ビバルディのオペラとは

これまでに前述してきたように、優れた演奏家、協奏曲の先駆者でもあったビバルディでしたがオペラの分野において、これまでそれ程の脚光を浴びることがなかったのは、実に不思議なことです。

バロック時代以降のオペラ作曲の大家達に圧倒されてきたように思われますが、ビバルディは生前、むしろオペラの作曲家として名をはせていたと言われております。

また嬉しいことに最近、世界各地でビバルディのオペラをライブステージで観覧できるようになったり、またはCDの録音などで聞ける機会が増えてきております。

このような背景は、ビバルディの死後、近代に至るまでに彼の残した作品の多くが、長年に渡ってこの世から忘れさられていた時代があったことを肯定せざるを得ないものとの理解になりますが、このあたりは後ほども触れますが、単に当時のビバルディを取り巻く音楽界のはやりすたれだけでの影響ではなく、ビバルディの作曲家人生において、計り知れない何か大きな転機があったものと理解される要素があったとも思われます。

バロック時代後期のオペラ(14)ビバルディの才能

バロック後期のオペラ(14)
ビバルディ独自の才能

ビバルディのオペラにおける独自の才能が見られる要素が他にもあります。
ここでは、ビバルディが活躍した時代のオペラ上演が、今では考えられない情景で執り行われていたことに着目されます。

当時は上演中にも関わらず、飲食、遊具の使用、中座は日常茶飯事であり、また劇の進行もアリアが途中で入り込んだり、物語り上は見せ場を演出しているレチタティーボが関心を持たれずに、大方アリアによって各々の場面が途切れてしまう傾向にありました。

そして観客が、着座し静まり返るのは、歌手が技巧的なアリアを独唱する場面においてとなっていました。

この点、ビバルディは上演するオペラの舞台構成、演出の上で、上演の際に舞台装置はほどほどにし、管弦楽団もそれ程大きくは編成せず独奏者としても優秀な人材を揃え、ベネチア聴衆の嗜好でもあった高く澄み切る歌声が出せる若くて有能な歌手を抜擢するようにして、観客の注目を集めるように工夫し、これらの資源的要素を最大限に引き出せる創作に徹し、聴衆のニーズに応えるようにしていたと言われております。

以下に、散逸している残りの7曲を記載します。

15.メッセニアの神託(RV.726)、
16.ロズレーナとオランタ(RV.730)
17.忠実なロズミーラ(RV.731)、
18.スカンデルベルグ(RV.732)
19.セミラーミデ(RV.733)
20.ヘルシア王シロエ(RV.735)
21.ティエテベルガ(RV.737)

などがあります。

バロック時代後期のオペラ(13)ビバルディの作品と先人達の遺作

バロック時代後期のオペラ(13)
ビバルディの作品と先人達の遺作

ビバルディ自身の作品と、先人達の遺作にも共通点があります。

前述にも登場したビバルディのオペラ「ウティカ のカトーネ」(RV.705)において、聴衆に対してより強烈にドラマ仕立てな演出効果を印象付ける為に、史実上は最後に自殺するカトーネを生かしたまま見せ場として盛り上げて終幕する形式としています。

これは、モンテベルディの「オルフェーオ」にも見られた、悲劇的結末の台本を幸福的な要素のシナリオ演出に変更している点と似通った捉え方として考えられるかと思われます。

このようにビバルディは先人に学び、聴衆の嗜好に合致した脚色構成と自身の独創性を融合して数々の創作を手かげたものと思われます。

また、以下に散逸している7作品を記載します。

8.フェラスペ (RV.713)、
9.スコットランドの王女ジネービア (RV.716)、
10.復讐のための偽り(RV.720)、
11.愛における偽りの勝利 (RV.721)、
12.イペルメストゥラ(RV.722)
13.モテズーマ(RV.723)<ただし、最初の7場とフィナーレが欠落>、
14.皇帝になったネロ(RV.724)<ただしパスティッチョのみが散逸>

などがあります。