バロック時代後期のオペラ(12)楽譜のないビバルディのオペラ

バロック時代後期のオペラ(12)
楽譜のないビバルディのオペラ

ビバルディのオペラ上演に掛ける情熱も去ることながら、聖職者としての活動をも両立させている一面があります。

具体的には、ビバルディが1714年に「狂人を装うオルランド」(RV.727)作曲しながらも、なおもピエタ養育院で司祭を務め1714年にオラトリオ「ファラオの神モーセ」を、更に1716年には、オラトリオ「勝利のユディータ」を初演するなど、音楽学校での教育活動をもこなしていたと点にあると言われております。

また、ビバルディのオペラで残念ながら楽譜の現存していない曲が下記のように21曲もあります。

ここでは、まず7曲を以下に記します。

1.アデライデ(RV.695)、
2.アリースティデ(RV.698)
3.パルティア王アルタバーノ(RV.701)、
4.カンダーチェすなわち真の友人たち(RV.704)
5.愛と憎しみに打ち克つ貞節 RV.706、
6.クネゴンダ RV.707、
7.裏切られ、復讐した忠誠 RV.712 

などがあります。

またビバルディの創作は、類希に見る執筆の早さで、まるで書写するかのような早さで作曲してしまう程で、オペラも26年間に1年あたり2作品のペースで完成させたことになり、ビバルディの鬼才ぶりが表れています。

バロック時代後期のオペラ(11)歌劇「怒れるオルランド」

バロック時代後期のオペラ(11)
歌劇「怒れるオルランド」(RV.728)について

ビバルディの時代にも、古代ローマをモチーフにしたり、異国情緒が漂う東洋を舞台にしたシナリオに人気がありました。
ここでは、前述にてご紹介した歌劇「怒れるオルランド」について、触れておきたいと思います。

この作品は、1727年にベネチアのサン・タンジェロ劇場で初演されております。
シナリオは、フランスのシャルルマーニュ大帝(在位768-814 )の甥の若き武将オルランドを主人公とし、物語詩「狂気のオルランド」(1516年)に基づいたモチーフで、17世紀頃19世紀まで多くの作曲家によってオペラ化されてきた背景がありました。

ビバルディも、これら世紀の作曲家として当時注目を浴びたことは言うまでもありません。

主人公のオルランドは、ダッタン王の娘であるアンジェリカに想いを寄せていましたが、恋敵となるサラセンの王子メドーロの出現で窮地に追いやられる展開となります。
最終的には、アンジェリカとメドーロの結婚がクライマックスとなりますが、オルランドはこれを祝福して終幕となります。

エキゾチックな東洋の国々を情景に、異教的の人物像が登場するこのシナリオは、当時のベネチアの聴衆の好奇心を引いて止まなかったことであろうと考えられます。

バロック時代後期のオペラ(10)ビバルディと父の影響

バロック時代後期のオペラ(10)
ビバルディと父の影響

ビバルディがオペラの創作を、意欲的に継続してきた背景には、ビバルディの父ジョバンニの影響を受けていた点がありました。

この当時、以前より父ジョバンニはフランチェスコ・サントゥリーニとサン・タンジェロ劇場の共同経営をしており、同時にオペラの作曲も施しておりました。
これは無論、当時オペラが生計を立てる手段として有効であった為ですが、ビバルディ自身もこの劇場運営を担う立場にあった事から、次々と聴衆の話題となる作品を創作せざるを得なかった背景があったと言われております。

1712年からは、実質上ビバルディ自身が同劇場の経営権を譲り受け運営していたとも言われております。

以下に現存する作品のうち、残りの7曲程を記します。

19. 離宮のオットーネ大帝(RV.729)
20.シルビィア(RV.734)、
21. テウッシォーネ(RV.736)、
22. ティート・マンリーオ(RV.738)
23.試練の中の真実(RV.739)
24. 愛と憎しみに打ち克つ美徳、すなわちティグラーネ王(RV.740)<第2幕のみが作曲されています。>

などがあります。

これら、ビバルディの歌劇の大半は全三幕で構成されており、ドランマ・ペル・ムジカ(オペラ・セリーア)となっております。
そして、現存する24曲の中でも一部は完全な形式で残っていない曲が、上記に含まれる5曲程となっています。

バロック時代後期のオペラ(9)歌劇「バヤゼット」

バロック時代後期のオペラ(9)
歌劇「バヤゼット」(RV.703)について

ここでは、前述でご紹介した歌劇「バヤゼット」(RV.703)について、少々触れておきたいと思います。

「バヤゼット」は1735年にベローナ、フィラルモーニコ劇場で初演があった、と言われております。
物語としては、15世紀の世界史上に残る『アンカラの戦い』をモチーフにした内容となります。
西洋歴史において名高いアンカラの戦いは、1402年7月20日にダッタンの皇帝タメルラーノとトルコのバヤゼットが現在のトルコの首都アンカラ北東部で大決戦を繰り広げた戦闘であったと言われております。

台本は、ダッタンの皇帝タメルラーノと、ダッタンに幽閉されているトルコ皇帝バヤゼットとの名誉をかけた争いを描いており、これら異国の2人の皇帝の登場に加えて、バヤゼットの娘アステリアをめぐる三角関係が絡み合う展開でシナリオ化されております。

以下に、現存する作品のうちから、更に6曲程を記します。

13.ジュスティ―ノ(RV.717)、
14.グリゼルダ (RV.718)、
15.ダリオの戴冠 (RV.719)、
16.オリンピアーデ(RV.725)、
17. 狂人を装うオルランド(RV.727)、
18.怒れるオルランド(RV.728)

などがあります。

バロック時代後期のオペラ(8)ビバルディのオペラその2

バロック時代後期のオペラ(8)
ビバルディのオペラその2

1713年からは、ピエタ養育院音楽学校の「協奏曲長」のポストに就き、またサン・タンジェロ劇場の興行師の役にも抜擢されております。

1714年には、サン・タンジェロ劇場で「狂人を装うオルランド(RV.727)」を初演し、ここでも人気を博したと言われ、ビバルディのオペラ作曲が起動に乗り始めた時期でもありました。

以下に現存する作品のうち、更に6曲程を記します。

7.ドリクレア (RV.708)<RV.706の別稿となります。>、
8.テンペーのドリッラ(RV.709 )、
9.テルモドン川のヘラクレス(RV.710)、
10.ファルナーチェ(RV.711)
11.忠実な妖精 (RV.714)、
12.マケドニア王フィリッポス(RV.715)<3幕のみ作曲され、残りは散逸しています。>

などがあります。

劇場の運営に当たっては、経験のある劇場支配人が不可欠でありましたが、ビバルディの時代には興行師があらゆる業務を司る役目を担っており、ビバルディ自身も作曲活動の傍ら相当多忙な日々をおくったことであろうと考えられます。

実際の運営は、事前に劇場所有者への挨拶周り、有力な後援者の発掘、出演者の契約交渉、配役のわりふり、上演当日は入場券の販売まであったと言われております。

バロック時代後期のオペラ(7)ビバルディの逸話

バロック時代後期のオペラ(7)
ビバルディの逸話

ビバルディが活躍した当時のベネチアでは、聖職者の多くが宗教活動とは接点の少ない音楽、オペラの上演に関わるなどして、本来の職業よりも音楽化として生計を立てようとする傾向があり、ベネチア社会自体が、比較的このような活動に寛大な面があったと言われております。

この点、ビバルディもまた、このベネチア社会情勢の恩恵にあやかった1人と言えます。
このようなビバルディの音楽家としての活動において興味深い逸話があります。

ビバルディは自身の楽譜を売る際に、確実に収益を得る為に、直筆の手書き楽譜を売るようにしていたと言われています。
更には、購入者がビバルディの曲を正確に弾けるように、バイオリンを習わせ、レッスン料を支払わせるシステムを理解させて、販売していたと言われております。

当時の著名人としてはヨハン=フリードリヒ=フォン=ウッフェンバッハも、ビバルディから合奏協奏曲集の楽譜を購入し手ほどきを受けた人物で、ドイツに帰国後にビバルディの音楽を普及させるなどしていた背景から、この点ビバルディは相乗効果を得ていたと考えられます。

バロック時代後期のオペラ(6)歌劇「アルジッポ」その2

バロック時代後期のオペラ(6)
歌劇「アルジッポ」(RV.697)その2

(前回から引き続いています)
当然のことながらこの頃は、全幕を通して(全楽譜が既存)の上演であったと思われますが、前に触れておりますように、現在は全幕の楽譜が完全な状態で既存するわけではなく、残念ながら全体の約3割にあたる楽譜が欠落している状態となります。

しかも現在、既存する約7割の楽譜も、何百年もの間その所在が不明のままとされてきましたが、2000年代になってからビバルディの作品を研究する専門家達によって、ようやくその存在がレーゲンスブルクにて発見されたもので、この吉報をビバルディの多くのファンが喜んだばかりか、早々に上演される機会を待ちわびたことも記憶に新しいところです。

なお、気になる欠落していた箇所の楽譜は、最近ではビバルディの歌劇が作曲された当時の、その他の歌劇の一部楽章を参考に、その欠落部分を補正追加されるなどして欠落部の楽譜の復元が試みられており、こうしてビバルディファン待望の歌劇『アルジッポ』は数百年の年月を経て、この世に復活したとの背景があったのです。

バロック時代後期のオペラ(5)歌劇アルジッポその1

バロック時代後期のオペラ(5)
歌劇アルジッポ(RV.697)その1

ここでは、前述した歌劇<アルジッポ>に関する話題を少々紹介しておきます。

その作品番号でも認識されますように、現存するビバルディの歌劇の中でも初期に書かれた作品の位置付とされるものです。

初演は、1730年にプラハ(スポルグ劇場)にて上演されており、初演当初より多くの聴衆から好評を博したと言われております。

この歌劇は、当時ビバルディの作品にとりわけ関心を寄せていたプラハのベルトビー伯爵から、<実に偉大>と賞賛されたと言われております。

またこの史実は、歌劇<アルジッポ>が上演された当時の台本に、ベルトビー自身が記載した思われる筆跡で今でも保存されていることからビバルディの歌劇が、この当時から諸外国で成功を治めていたことが理解されます。

なお、このベルトビー伯爵は、リュートのための協奏曲と2曲のトリオの作曲をビバルディに依頼した人物でもあるとされています。

バロック時代後期のオペラ(4)ビバルディのオペラ

バロック時代後期のオペラ(4)
ビバルディのオペラ

1713年にビバルディは、歌劇「離宮のオットー大帝」RV.729をベチェンツァで初演し大成功をおさめています。

ビバルディの生涯においては、全92曲のオペラが作曲されたと言われております。しかしながら、現在確認されているのは全部で44曲程と約半数のみで、しかもそのうち現存する曲は24曲となっておりますが、まず以下にそのうちの作品6曲程を記します。

1.アルジッポ(RV.697)<全体の約7割程が、現存しています。>
2.エジプトの戦場に赴くアルミーダ(RV.699)<第2、第3幕のみ現存しています。>
3.ポントゥス女王アルスィルダ(RV.700)
4.アテナイデ (RV.702)
5.バヤゼット(RV.703)
6.ウティカ のカトーネ(RV.705)<第2、第3幕のみが現存しています。>

などがあります。

ビバルディのオペラが注目を浴びたのは、作曲家としてのこれまでの作曲気質を大きく変えずに、上演の度に常に聴衆を沸かせる独自の技巧性、創造性がうちだされていたところにあった為と言われております。

バロック時代後期のオペラ(3)ポッラローロとロッティについて

バロック時代後期のオペラ(3)
ポッラローロとロッティについて

カルロ=フランチェスコ=ポッラローロ(1653~1723年)はベネチアに生まれ、オーボエを伴奏に加えて適用するなど、画期的な手法を生み出した作曲家でもありました。

1686年に「リクルゴ、鋭い眼力の盲人」をベネチアで初演し、1698年には代表作「ファラモンド」を初演しています。
この作品は、アリアを独唱する歌手とバイオリンの独奏が編み出す技法、またアリオーゾが含まれていないという特徴があったと言われております。生涯において、約85作品を上演したと言われておりますが、残念なことに楽譜の多くが散逸しているのが現状です。

アントニオ=ロッティ(1667~1740年)は、1713年に「ポルセンナ」を、そして1716年に「アレッサンドロ・セベーロ」をベネチアで初演し成功をしております。1719年には、「テオフォーネ」を、異国のドレスデンで初演しています。

ロッティは、サンマルコ大聖堂の主席学長としても知られ、ポッラローロの後継者でありました。

バロック時代後期のオペラ(2)ツィアーニとガスパリーニについて

バロック後期のオペラ(2)ツィアーニとガスパリーニについて

マルカントニーオ・ツィアーニ(1653~1715年)はベネチアに生まれ、バロック中期のオペラで活躍したピエートロ=アンドレーア=ツィアーニ(1616~1684年)が叔父でありました。

「スパルタの女戦士」などの作品で知られる叔父の影響を受けて育ったツィアーニは、その独特なオペラ形式と構成が、当時も高く賞賛されていたと言われております。

1674年に「幸運な女奴隷」で、1679年には「シドーネアレッサンドロ大王」、1700年には「寛大な平和」がベネチアで初演されておりますが、合計26作品あったと言われる作品のほとんどが、散逸しています。

フランチェスコ=ガスパリーニ(1661~1727年)はルッカに生まれ、1701年にビバルディにもゆかりのあるベネチアのピエタ養育院音楽学校の合唱長を1711年まで務めた人物で、この頃ビバルディはガスパリーニの下で教職を務めていました。

1724年に「ティグレーナ」を初演し以後、ダ・カーポ・アリアを主体にした代表作「アムブレート」を1706年に、1713年にはベネチアを去り、1711年に作曲した「タメルラーノ」をローマで初演しています。

また、ビバルディは1711年に再びピエタ養育院との関係を再開し、同音楽学校の音楽教師に復職しております。

バロック時代後期のオペラ(1)スカルラッティについて

バロック時代後期のオペラ(1)
スカルラッティについて

ビバルディのオペラ創作に大きな影響を与えたと思われる同世代のベネチア派の作曲家にスカルラッティ、ツィアーニ、ガスパリーニ、ポッラローロ、ロッティらがいました。

アレッサンドロ=スカルラッティ(1660~1725年)は、パレルモ(シチリア島)に生まれ、後期バロックのオペラの基礎を確立した人物でした。
1679年に「顔の取り違え」を、1679年に「愛の取り違い」を作曲し1700年にローマで上演され好評を博したと言われております。

これらは、オペラ・セーリアと呼ばれるジャンルで3幕にて構成されており、「早・遅・早」で構成された序曲やダ・カーポ付きアリアなどが特徴とされております。

以後、同形式のオペラが1694年に「ピッロとデメトリオ」、1695年に「マッシモ・プッピエーノ」、1697年に「10人委員会の没落」などがナポリで初演されております。
また1707年には「ミトリダーテ・エウパトーレ」、1715年に「ティグラーネ」、1718年に「テレーマコ」、1719年に「カンビーゼ」、「マルコ・アッティーリオ・レーゴロ」と意欲的な作曲活動の筆跡が見られます。

なお、最後の作品は1721年の「グリゼルダ」で、スカルラッティ様式の特色とも言える多数のアリアと学曲で全体を構成しており、またすべてのアリアがダ・カーポを含む形式で作られております。

ビバルディとバロック後期オペラの成り立ち

ビバルディとバロック後期オペラの成り立ち

バロック後期のイタリアオペラは、ベネチアで確立しほぼヨーロッパ全域に普及した、商業劇場の構造体系の広まりが後押したこともあり、オペラに携わる多くの芸術家を育むだけでなく、ヨーロッパ諸外国への急激的なイタリアオペラの搬出をも増長させていくことにもなりました。

ビバルディのオペラもこの頃から、ベネチア派と呼ばれる複数のオペラ作曲家と共に、イタリアオペラの一環としてビチェンツアを基点に世に知られていくことになります。

なお、この時期には前述で触れたカバッリなどに見られた中期オペラの様式、レチタティーボ(劇中での語りや演説を強調し、話すように歌う歌)とアリア(技巧的に歌われる独唱歌)の分化がより顕著になり、ダ・カーポ・アリアやダル・セーニョ・アリアが主体となるようになりました。

ダ・カーポ・アリア、ダル・セーニョ・アリアには、その反復形式の特徴に加え更に変奏の技巧が適用され、歌手は自己の歌唱力や工夫により、各々の音楽旋律に合った装飾的な要素を色濃く歌い替えする表現、技法を高めていくことになり、この頃から比較的、近代のオペラに見られる特徴が定型化されるようになっていくのでした。

バロック時代中期のオペラ(5)チェスティについて

バロック時代中期のオペラ(5)
チェスティについて

カバッリと共に、バロック音楽中期のオペラで重要な位置付けにあったのが、アントニオ=チェスティ(1623~1669年)の存在があります。

ビバルディと同じアントニオの名前をもつこの作曲家は、ビバルディがこの世に生を受ける約半世紀前にアレッツォに生まれており、ベネチアには1640年後半であったものと考えられております。

チェスティは、1651年に第二作目と言われる<恋するチェーザレ>を、サンティ・ジョバンニ・エ・パオロ劇場で初演し、成功を治めております。
この頃から、前に触れた同時代を生きたカバッリのライバルであったと考えられます。

チェスティの代表作としては民族的な音楽要素が随所に表現された<オロンテーア>を1656年にインスブルグで初演し好評を博しております。

また翌年1657年には同じくインスブルグにて<ドーリ>を、また1667年には<セミラーミ>、1668年<金のりんご>をウィーンで初演し、主にベネチア圏外で活躍した功績がきわだつ作曲家でありました。

チェスティのこの活躍は、ドイツやオーストリア圏での海外への普及に大いに貢献したと言われております。

バロック時代中期のオペラ(4)カバッリのオペラ

バロック時代中期のオペラ(4)
カバッリのオペラついて

1639年、フランチェスコ=カバッリ(1602~1676年)が<テーティとペレーオの結婚>を初演します。

カバッリは、中期バロック期を代表する作曲家で、同地サン・マルコ大聖堂聖歌隊のボーイ・ソプラノの活動をとおしてその才能が開花し、いくつかの作品を創作したものと言われております。
また、その作風には彼自身がモンテベルディの弟子であったこともあり、総合する場面の構成法や劇的な朗誦様式がよく受け継がれていると考えられます。

また1641年には<ディドーネ>、1643年には<エジスト>を発表し、この中期バロック時代にはよく好まれた<半音階的な下降の低弦>に合わせた哀歌が用いられるなど、ベネチアの大衆に親しまれやすい作品を独自に創作しようとした時期があったものと思われます。

そして1649年には、カバッリの代表作<ジャゾーネ>を初演し、成功を治めております。
この作品は古代ギリシア神話を題材としながら、喜劇的な配役の設定と場面をも織り込ませていた特長がありました。

また、レチタティーボ、アリオーゾ、アリアの分化が見られるのも、カバッリの作品の特徴であると考えられております。

バロック時代中期のオペラ(3)当時のベネチア

バロック時代中期のオペラ(3)
当時のベネチアについて

ベネチアでは、歴史的に文化、芸術を市民が生み出し発展させる独自の傾向がありましたが、この傾向はバロック中期のベネチアでも、特徴として垣間見ることができます。

たとえば、その当時のベネチアの聴衆は、あたかも器楽合奏が声の旋律に相槌をするような反響音で形成された三拍子系のアリア(舟唄風)を重要視していましたし、また、描写的なシンフォニアが華麗な舞台を伴って奏でられるスタイルを好んでいたと言われております。

バロック時代中期の頃は、特に耳に易しく順応しながらも、聴き易い和声の流れにより、比較的ポリフォニックな要素を僅かに含めた構成であったのではないかと思われます。

一方では、この時期になると、台本の面白さが献呈の見返り報酬に直結していた背景があります。

作曲家と歌手が、上記のような音楽のスタイルを聴衆から要求され、それを積極的に反映させている点もあり、また、ベネチアの作家たちもシナリオドラマの娯楽性を高めて、台本の印刷経費を自己で負担し、上演ごとに印刷をすることを怠らなかった、と言われております。

バロック時代中期のオペラ(2)「モンテベルディ」の存在

バロック時代中期のオペラ(2)
「モンテベルディ」について

バロック中期のオペラを代表する作曲家としては、再びモンテベルディに脚光をあてることになります。

1613年にモンテベルディは、マントバ宮殿を解雇されてベネチアに移ります。
同年サン・マルコ大聖堂の学長に就任し、同地にてスティーレ・ラップレゼンタティ―ボを普及させるなどして、晩年はベネチアの比較的初期の各商業劇場のための作品を残しております。

またこの時期のモンテベルディは、フィレンツェ派の硬直した音楽様式からの脱却を図っており、1630年モチニーゴ家の婚礼用に<誘拐されたプロゼルピーナ>を作曲しております。

さらに1640年には娯楽性に優れた構成にて<ウリッセの帰郷>、続いて1641年<エネオラとビーニアの結婚>、1643年には史実に題材を求め貴族様式と民族様式を融合させた最初の世俗作品<ポッペーアの戴冠>を作曲しております。

この作品は当時のベネチアの聴衆の芸術性を反映し、格調の高さよりも、あるいは様式的な洗練よりも生きた人間の生命力を表現するドラマ的な要素を重視した内容となっており、いち早くこのような曲調を取り入れたモンテベルディの才能の鋭さがお分かりになるでしょう。

バロック時代中期のオペラ(1)オペラハウスの誕生

前回まではバロック時代の初期と言われた頃のオペラや音楽劇の存在などについて、いろいろ書いてきましたが、今日からバロック時代の中期に歴史を移し、またオペラを中心に、しばらく書いていきたいと思います。

バロック時代中期のオペラ(1)
<オペラハウスの誕生>

フィレンツェ、ローマで飛躍した音楽劇は、1637年にベネチアに世界初の商業劇場としての公開オペラハウスが完成したのを期に、モンテベェルディ、カバァッリ,チェスティらの登場で、欧州諸外国へベネチア独自のオペラ搬出を促すまでに発展したのでした。

また、この公開劇場としての商業性からの相乗効果により、同時に歌手、台本作家、舞台装置家なども育まれ、ベネチア・オペラの舞台演出が国際的模範となるようになると、貴族的、文学性な高等な性質が失われていき、大衆娯楽へとその芸術性が変化していきました。

この時代、ベネチアの商業劇場は急激に発展し増加していきましたが、この背景にはベネチア貴族達が自らパトロンとなり劇場所有者となり経営システムの確立をも含め、互いに利権を争うなどして競争力を生み、富と名声の誇示があったためであるとされています。

また同時に舞台演出においても、国際的規模に成長した時期でもあり、遠近法を取り入れた移動式の書割や背景幕の使用、中空を飛ぶための機械装置など、大掛りな機械仕掛けが施された舞台機構は、以後ヨーロッパ全域に普及したオペラハウスの模範となる劇場構造となりました。

バロック時代初期のオペラ(7)ランディのオペラ

バロック初期のオペラ(7)
ランディのオペラについて

(前回の記事から引き続いています)
1632年にはローマのバルベリーニ宮殿劇場で、ステーファノ=ランディ(1587-1639年)が作曲した<聖アレッシオ>が上演されます。
なお、この劇場は、当時ローマで最大の権力を誇っていた貴族バルベリーニ家によって建造され、3000人規模が収容できる大劇場であったと言われております。
1644年に同一族が崩壊するまで、ローマで上演された音楽劇は、すべてバルベリーニ家が独り占めした背景があったとされております。

この作品の特徴としては、歴史上の有名な主人公を題材とした最古のオペラであったところにありました。
またランディは、牧歌劇<オルフェーオの死>などの作品も書いております。
この歌劇は、モノディア様式の独唱とマドリガーレ(多声世俗声楽曲)を程よく調和させており、また配役に喜劇様相を演出する登場人物を含めるなど当時としては新しいユニークな構成を有する作品であったと言われ、音楽劇としては、初期の頃に比べその形式を序々に変えながら、中期の音楽劇に反映されていくこととなります。

バロック時代初期オペラについては今回で終わりとします。
次回からはバロック時代中期のオペラについて、また詳しく書いていこうと思っておりますので、どうぞお楽しみに。

バロック時代初期のオペラ(6)モンテベルディの「オルフェーオ」

バロック時代初期のオペラ(6)
モンテベルディの「オルフェーオ」について

(前回の記事から引き続いています)
1607年に、マントバァでクラウディオ=モンテベルディ(1567~1643年)作曲による<オルフェーオ>が初演されました。
1609年には、ベネチアで出版されバロック初期の傑作と称されております。
この作品は、題材こそ前述に触れた作曲家達と同様に、古代の神話伝説をモチーフとしていますが、朗唱風のモノディア形式が主体であったその時代の作品とは相違し音楽によるドマを創作した点にあると言えます。

具体的には、<スティーレ・ラップレゼンタティ―ボ>を取り入れながらも、人間的なドラマの表現として、独唱朗誦にてその心理的な陰影を含んだ旋律を主体とし、アリオーソやアリアを用いたりしているところにあり、理念に捉われずに自由に豊かな感情表現を盛り込んだ様式でありました。
また音楽の劇的な表現効果の手段として、旋法を脱し調を巧みに用いている点においても、優れた劇音楽であったと言われております。

他にも、楽器編成とその演奏法において、当時の管弦楽編成として全体の3分の1を占めていた通奏低音楽器群をその場の雰囲気や登場人物の配役、性格に応じて多彩に駆使した思考が含まれている特徴があります。
なお、後にビバルディも、この作品のモチーフに影響を受けたオペラを創作しております。

バロック時代初期のオペラ(5)カッチーニと「エウリディーチェ」

バロック時代初期のオペラ(5)
カッチーニと「エウリディーチェ」について

(前回の記事から引き続いています)
1600年に、ローマではエミリオ=デ=カバァリエーリ(1550~1602年)が、<魂と肉体の劇>を初演しています。
ただ、この作品は、宗教的な要素が含まれる一方で、演技、技巧などが含まれない構成であることから、現代においては、オラトリオの類にあたる位置付けとされております。

また、同じ1600年には、前述でも触れたカッチーニが<チェファローの誘拐>を初演しております。

さらに、この数年後の1602年には、ペーリと同じ脚本にて<エウリディーチェ>を初演(カッチーニ自身の出版は1600年)しておりますが、<エウリディーチェ>はガリレーイのカメラータに属したカッチーニと、コルシのサークルに属したペーリという異なる2人の作曲家で、しかも同じ時代に作曲されたまれに見る音楽劇であったのです。

以上、バロック時代初期の音楽劇(オペラ)に共通するのは、語りによる伝達性を重要していたことから、言葉の一音節ごとに一つの音を供与させ、反復を避けながら歌を可能な限り語りに近づけようとする技法が見られるところがあった点でした。

この結果、音楽劇は身分の高い教養人が音に合わせ込んだ詩句を授かり受けることを主体とした芸術の類として考えられるようになり、高等、あるいは貴族的な要素で構成される作品が主体となっていったものと考えられます。

バロック時代初期のオペラ(4)ペーリとメディチ家

バロック時代初期のオペラ(4)
ペーリとメディチ家について

(前回の記事から引き続いています)
当時のフィレンツェは、人口が6万人を越える大都市になっており、ルネサンス文化の開花地としてあらゆる文化、芸術において多大な影響力を誇ると共に、同地は名高いメディチ家の統治下にありました。
ペーリは、そのようなメディチ家の宮廷音楽家、兼テノール歌手でもあったので、その当時一世風靡した音楽家の1人であったと考えられます。
なお、残念ながらこの<ダフネ>の音楽自体は現存していなく、詳細が分かりませんが、歴史上に浮かび上がる記録が残っている背景には、フィレンツェのオペラがメディチ家などの当時の有力な貴族社会により保護され、高踏な芸術として取り扱われたことによって成立した宮廷音楽が発祥の根源であったと考えられます。

またペーリは、数年後の1600年にギリシャ神話の結末を変更したモチーフにより<エウリディーチェ>を、フィレンツェで初演しております。
この曲は、当時メディチ家の姫とフランスのアンリ4世の婚礼の為に作曲されたものと言われております。
ペーリは、この作品においては、マドリガーレを少々織り込んではいるものの、歌うように語る形式を大幅に取り入れております。
この形式から「スティーレ・ラップレゼンタティーボ」という朗誦様式がうまれました。

バロック時代初期のオペラ(3)「コルシ」と「ペーリ」

バロック初期のオペラ(3)
「コルシ」と「ペーリ」について

(前回の記事から引き続いています)
カメラータは、ヤーコポ=コルシ(1561~1602年)を中心に結成された同好会のような、いわゆるサークルに引き継がれ、イタリア音楽劇を代表する作品を残した複数の作曲家と共に、その活動功績が刻まれることになります。

歴史的な音楽劇としては、ヤーコポ=ペーリ(1561~1633年)が作曲した<ダフネ>が、世界最古の歴史であると言われております。
ペーリは、このコルシの同好会にも属しておりました。
興味深いのが1594年にこの<ダフネ>の数曲を始めに作曲したのがコルシ自身であり、その大半をペーリに依頼し完成されたと言われているところにあります。
これは、劇作品が同サークルで吟味される段階を経た後に、音楽劇として世に発表されていた理解となりますが、このように考えると、彼らの同好会が当時の劇作品を創出していたと言っても過言ではないと思われます。

なお、この曲はすでにモノディア形式を現すような朗唱により、物語の全体を語る形式で構成された特徴が含まれております。
初演は、1598年にフィレンツェであったと言われております。