バッハのカンタータ(宗教カンタータ1)

バッハのカンタータ(宗教カンタータ1)

バッハは、宗教カンタータ、世俗カンタータの両方を作曲しております。以下にバッハのカンタータをシュミーダーBWVの番号順に記載します。まずは、宗教カンタータBWV1 ~BWV25となります。

(宗教カンタータ1)
1.「輝く曙の明星のいと美しきかな」BWV.1、
2.「ああ神よ、天よりみそなわし」BWV.2
3.「ああ神よ、いかに多き胸の悩み」BWV.3、
4.「キリストは死の縄目につながれたり」BWV.4
5.「われはいずこに逃れゆくべき」BWV.5、
6.「われらと共に留まりたまえ」BWV.6
7.「われらの主キリスト、ヨルダンの川に来たり」BWV.7、
8.「いと尊き御神よ、いつわれは死なん」BWV.8
9.「救い主はわれらに来たれり」BWV.9、
10.「わがこころは主をあがめ」BWV.10
11.「神をそのもろもろの国にて頌めよ」BWV.11、
12.「泣き、嘆き、憂い、おののき」BWV.12
13.「わがため息、わが涙は」BWV.13、
14.「神もしこの時われらと共にいまさずは」BWV.14
15.「そは汝わが魂を陰府に」BWV.15、
16.「主なる神よ、汝をわれらは讃えまつらん」BWV.16
17.「感謝の供えものを献ぐる者はわれを讃う」BWV.17、
18.「天より雨くだりて雪おちて」BWV.18、
19.「かくて戦い起れり」BWV.19、
20.「おお永遠、そは雷のことば」BWV.20
21.「わがうちに憂いは満ちぬBWV.21、
22.「イエス十二弟子を召寄せて」BWV.22
23.「汝まことの神にしてダビデの子よ」BWV.23、
24.「まじりけなき心」BWV.24
25.「汝の怒りによりて」BWV.25、

以後、上記カンタータの中から、代表して第4番と第22番について紹介していきたいと思います。

バッハとカンタータについて

バッハとカンタータについて

ミュールハウゼンに移住したバッハは、1707年の秋にマリア=バルバラ=バッハ(父方の従兄の娘)と結婚します。

この頃からバッハは、カンタータの作曲を始めており、生涯に渡り200曲以上ものカンタータを残しています。

ウォルフガング=シュミーダーが組織的に整理した目録であるバッハ作品番号BWVの形式では、BWV1~231がカンタータに相当しています。

カンタータは交声曲とも言われ、器楽器の伴奏に合わせて独唱か合唱いずれかが加わって構成された声楽曲のことです。

またカンタータの由来は、1600年代後半頃に、イタリアで作曲された、レチタティーボ(話すように歌われるパート)とアリア(独唱)からなる独唱と通奏低音のための歌曲として知られ教会などで歌われていました。

バッハが活躍した時代の1700年代前半のドイツでは、コラール(讃美歌)を取り入れた教会カンタータが作曲されるようになっていました。

カンタータには、教会カンタータと世俗カンタータがあり、前者は宗教的な主題がモチーフとなり、聖書に由来する歌詞が使われる形式であるのに対して、後者は都市や宮廷の祝典のために作曲された複数声部のための作品で、当時はむしろ「セレナータ)」、や「音楽劇」等と呼ばれるのが一般的でした。

バッハの生涯(ミュールハウゼン編)

バッハの生涯(ミュールハウゼン編)

(時代は「若き日のバッハ」から続いています。)
1707年、バッハはアルンシュタットからミュールハウゼンに新しい職を求めて移り住みます。
新天地ミュールハウゼンで、バッハは聖ブラジウス教会のオルガン奏者として迎えられることになったのです。

この聖ブラジウス教会は、アルンシュタットのボニファティウス教会よりも給料が高く、また音楽の質やレベルが高いと評価されているところでもあったことから、バッハは希望に満ちた新しい生活をこの町で始めようとしたのでした。

また聖ブラジウス教会は、当時増加傾向にあったプロテスタント派を継承していた為、ルター派を信仰する家系で育ったバッハがこの教会を選んだのも自然な成り行きと言えるでしょう。

なお、当時の各地の教会は、古い慣習に囚われたカトリック教会を脱し、プロテスタント派を継承する宗派が増加しており、これにより幾種もの教会儀式が増える事にもなりました。

また、バッハが務めた聖ブラジウス教会は、伝統的な音楽を公認するルター派の演奏を認めていない敬虔主義派であった為、バッハにとってはありふれた、つまらない音楽を提供せざるを得ない風習に苛まされるのでした。

なお、この聖ブラジウス教会での採用試験では「キリストは死の縄目につながれたり」BWV.4を演奏し、オルガン奏者の座を得たものと言われております。

バッハの生涯「若き日々のバッハ」(その3)

バッハの生涯「若き日々のバッハ」
アルンシュタットからリューベックへ(その3)

「若き日のバッハその2」から続いています。)

リューベックに長期滞在し、1706年にようやくアルンシュタットへ戻ったバッハは、バロック時代後期の新しい音楽を習得し、これをボニファティウス教会でも試行してみようと考えるのでした。

しかしながら、アルンシュタットでバッハを待ち受けていたのは、長期休暇に対する厳しい聖職会議からの非難と、バッハが試行しようとした新しい音楽への批判だけでしかありませんでした。

当時の礼拝の讃美歌にしては、場違いな即興演奏が含まれたり、また装飾が派手な伴奏があったり等で、聴衆に不快な心境を起こすような取り組みとみなされていたものと思われます。

バッハにとっては、自己が信じる新しい音楽がなぜ受け入れられないのか考える余地もなかった事でしょう。

しかし一方で、伝統と格式だけを重んじる風潮があるアルンシュタットとは、既に目に見えた温度差があったという事は言うまでもなく、バッハ自身がこれに気付くのには、そんなに時間掛からなかった事でしょう。

こうして若き日のアルンシュタット時代は、バッハとしては残念ながらかなり不完全燃焼で終わり、この地をあとにするのでした。

バッハの生涯「若き日々のバッハ」(2)「ディートリヒ=ブックステフーデ」について

バッハの生涯「若き日々のバッハ」(アルンシュタットからリューベックへその2)
もう1人のバッハ「ディートリヒ=ブックステフーデ」について

(「若き日のバッハその1」から続いています。)

先に触れたディートリヒ=ブックステフーデ(1637-1707年)は、17世紀のドイツ(プロイセン)を代表するオルガニストで、作曲家でもありました。

その作品は声楽においては、バロック期ドイツの教会カンタータの形成に尽力しておりました。

またオルガン音楽においては、北ドイツ・オルガン楽派の最大の巨匠とも言われ、その作風は幻想様式の典型とされ音楽界に貢献したとされております。

なお、ブックステフーデは、1668年にリューベックの聖マリア教会のオルガニストに就任しております。

この教会のオルガンは、3段鍵盤、54ストップを備える大オルガンで、当時では銘器としての誉れが高まっていた背景もあり、同教会のオルガニストは北ドイツの音楽家にとって最も重要な地位の1つとされていたと言われております。

バッハも、このリューベックを訪れブックステフーデの壮大なオルガン演奏に魅せられ、深い感銘を受け後に自己の音楽創作において大きな影響を受けたと思われます。その作風は、後に紹介する「トッカータとフーガニ短調」BWV565等の作品の特徴に表れていると言われております。

バッハの生涯「若き日々のバッハ」(その1)

バッハの生涯「若き日々のバッハ」
(アルンシュタットからリューベックへその1)

アルンシュタットで約3年程、定職に就いていたバッハでしたが、オルガン奏者としてだけでなく、聖歌隊の音楽教育指導も任せられるようになります。

オルガン奏者、オルガンの維持保守の仕事は、バッハにとってそれほどの苦ではなかったのですが、しかし、この聖歌隊での教師職は、まだ当時若いバッハには手を焼く仕事であったようです。

音楽の理解力も乏しく、学校の規則も遵守できない生徒が多かった為、バッハは忍耐を重ねる毎日であるばかりか、怒りすら覚えるようになり、次第に不満が積もっていくのでした。

そんな中バッハの人生を思いも寄らない方向へと変えていくきっかけとなったのが1705年の出来事でした。

アルンシュタットから、400kmもはなれたリューベックで当時のオルガン奏者としては最高峰と言われていたディートリヒ=ブックステフーデ(1637-1707年)が演奏会を開催する事を聞きつけ、いきなり4週間の休暇をとって、ブックステフーデの演奏会ばかりか、リューベックの音楽界にも夢中になり、この町に長期に渡り滞在したと言われております。

BWV(バッハ作品番号)とは

BWV(バッハ作品番号)とは

先に触れてきたバッハの作品番号として記載してきているBWVは
「Back-Werke-Verzeichnis」
の略で、バッハの作品を作曲された年代順ではなく、組織的に整理した目録としてその統一番号を作品番号として用いているもの。
ウォルフガング=シュミーダーが1950年に著した 「Thematisch-systematisches Verzeichnis der musikalischen Werke von Johann Sebastian Bach」(ヨハン・ゼバスティアン・バッハの音楽作品の主題系統的目録)に基づいております。

この形式が統一された背景には、当時の初編日時や、また繰り返して楽譜が書き換えされた等の背景から研究者達が各々の作品が作曲された年代の順番が決められなく、性格には明確化できない事情から生まれた優れた考え方であった事にあると言われております。

これには、後で紹介していきますがバッハの死後、クラシック音楽界における彼の位置付けそのものの歩みが深く関係している面があるからと言えるでしょう。

バッハのオルガン協奏曲集(第5番・第6番)

バッハのオルガン協奏曲集(その5)
<第5番ニ短調 BWV596>

バッハのオルガン協奏曲第5番は、ビバルディの「2つのバイオリンとチェロのための協奏曲 ニ短調」作品3の11(RV565)を原曲として編曲されたものです。

以前はバッハの長男であるウィルヘルム=フリーデマン=バッハ(1710~1784年)の作品と考えられていましたが、後に大バッハであるヨハンの作品と判明したと言われております。

構成は全4楽章からなり、第1楽章 (アレグロ―グラーベ)、第2楽章 フーガ、第3楽章 ラルゴ、第4楽章 フィナーレ(アレグロ)となっております。

なお、ウィルヘルムはバッハの息子たちの中では最も才能に恵まれたと評価されており、即興演奏や対位法の巨匠としても有名だったと言われており、幼い頃から父に音楽の手解きを受けていたためか、あるいは当時のウィルヘルムの作風が父の作品に似通っていたことも手伝い、そのような作曲者の相違を抱かせたものとも考えられます。

バッハのオルガン協奏曲集
<第6番 変ホ長調 BWV597>
バッハのオルガン協奏曲第6番は、ビバルディのどの曲が原曲であったかは現在も不明なところがあるためか、偽作ではないかと言われる逸話のある作品です。

構成は、第4番と同様に早さの指定が無い第1楽章と第2楽章( ジーグ)から構成されております。

バッハのオルガン協奏曲集<第2番・第3番>

バッハのオルガン協奏曲集(その4)
<第2番イ短調 BWV593>

バッハのオルガン協奏曲第2番は、ビバルディの「2つのバイオリンのための協奏曲 イ短調」作品3の8(RV522)を原曲として編曲された作品となります。

構成は3つの楽章からなり、原曲のバイオリンの特徴が、巧みな手法でオルガンに変換されていると感じ入るところがあります。

<第1楽章 (アレグロ)、第2楽章 アダージョ、第3楽章 アレグロ>

バッハのオルガン協奏曲集
<第3番ハ長調 BWV594>

オルガン協奏曲第3番は、ビバルディの「バイオリン協奏曲ヘ長調 RV 285a」作品7の5 (RV 285a)を原曲として編曲された作品となります。
今では、原曲が演奏される機会はあまりないのですが、ビバルディの音楽の特徴が色濃くオルガンで表現されている特徴があります。

<第1楽章 (アレグロ)、第2楽章 レチタティーヴォ(アダージョ)、第3楽章 アレグロ>
で構成されています。

バッハのオルガン協奏曲集について(その3)

バッハのオルガン協奏曲集について(その3)

1700年初期の頃、バッハはビバルディの作品をよく研究した時期でもあったと思われます。
中でもビバルディの弦楽器を主体とした協奏曲がその対象となります。

先にも触れましたが、この頃のドイツの音楽は、当時、音楽先進国であったイタリアから入り込んで来る新しい音楽の影響を受け、これを追従している時期であったからで、バッハというドイツ初期に現れた大音楽家もイタリア音楽に自然と関心を持たざるを得なかった環境にあったと言えます。

この背景には、当時の王家、貴族らが国の繁栄、統治の為に、常に新しい音楽を取り入れようとしてきたこともあり、好んで自国の作曲家にその演奏や編曲をさせていたものと考えられます。

バッハのオルガン協奏曲の一部もそのような背景で編曲されたものの一部となります。
次回より、オルガン協奏曲の残り4曲(第2番、第3番、第5番、第6番)の特徴や構成を記します。

バッハのオルガン協奏曲集より<第4番 ハ長調 BWV595>

バッハのオルガン協奏曲集について(その2)
<第4番 ハ長調 BWV595>

バッハのオルガン協奏曲集(その1)から続いています。)

先に触れたエルンスト公2世の原曲版による2曲中のもう一方の編曲作品が、この4番です。
特徴は単一楽章で、ソロとトゥッティの交付が非常に華やかに行なわれており、速度の指定が無いユニークな形式となっております。

バッハも当時広くもてはやされていたイタリア音楽に大きな関心を示すようになり、熱心に研究を繰り返していくことで、その原曲が持つ個性、影響を随所に採り入れながら自己の創作を形成していったものと考えられます。

このようにして、バッハは、イタリアの作曲家達が創作したしなやかで、優美な協奏曲の様式に大いに魅了されることで、同時にバイオリンをはじめとするその旋律楽器のイディオムが、鍵盤楽器と意外にも近親性を有している事実にも着目することで、独自の音楽技法を確立したと言われております。

バッハのオルガン協奏曲集<第1番ト長調 BWV592>

バッハのオルガン協奏曲集<第1番ト長調 BWV592>(その1)

先にご紹介したエルンスト公2世が作曲した6曲のバイオリン協奏曲のうち、バッハがオルガンに編曲したのは2曲となります。

これらは、協奏曲と言われておりますが、オルガンとオーケストラのための協奏曲ではなく、あくまでバッハ以外の音楽家が作曲した協奏曲を、バッハ自身がオルガン用に独奏曲として編曲したもので、今日オルガン独奏曲として知られております。

この背景には、当時新しい音楽の象徴は常にイタリアから発展してきており、イタリアの宮廷のみでなくドイツでもイタリア音楽が非常に愛好され、親しまれていた為であると思われます。エルンスト公2世の原曲版による2曲のオルガン協奏曲は第1番、第4番となります。

<第1番ト長調 BWV592>
第1楽章 (アレグロ)、第2楽章 グラーベ、第3楽章 プレスト

変化に富んだリズムや明るい旋律などを特色としており、快い魅力を湛えた当時既にヨーロッパ中のその名をはせイタリアバロックの最高峰であったビバルディ風の作品で全3楽章形にて構成されております。

バッハの生涯「オルガニストのバッハ」(アルンシュタット編)

バッハの生涯「オルガニストのバッハ」(アルンシュタット編)

18歳にして最初の挫折に遭遇し、辛酸を舐めるような日々を過ごしてきたバッハでしたが、1703年には気丈にもヨハン=エルンスト公2世の宮廷楽団にバイオリン奏者としての入団することとなりました。

これを境に、臨時のオルガン奏者等の経験を積み重ねたこともあり、同年にはアルンシュタットに建立された新しい教会(ボニファティウス教会)において専任のオルガン奏者に就任することになったのです。

きっかけは幾つかあり、この教会に設置された新しいオルガンの為の演奏者が募集された経緯があり、この試験演奏でバッハは大成功を収めたことによりますが、この地を基盤としていたバッハ一族の推薦があったことが、その成功の陰にあったとも言われております。いずれにしても、この様に自己で運命を切り開き積極的で、けして諦めないバッハの姿勢には感銘するばかりです。

なお、ヨハン=エルンスト公2世(1696-1715年)は、ザクセン=ワイマールの領主であったヨハン=エルンスト公1世の息子で、オランダに留学するなどの経験を持ち、バイオリン、クラービアを演奏し、バッハからも作曲の手解きを受けました。
天才ぶりを発揮した貴公子でしたが19歳という短命で世を去った人物です。

またエルンスト公2世は、6曲のバイオリン協奏曲を作曲しており、バッハはこれらをオルガン用(BWV592~597)、チェンバロ用(BWV982,984,987)に編曲しております。

バッハの生涯「バッハ音楽の根源」(ザンゲルハウゼン編)

バッハの生涯「バッハ音楽の根源」(ザンゲルハウゼン編)

1702年バッハは、リューネブルクの音楽学校を卒業し、本格的に自分の収入で独立した生活を始めるようになります。

当然のことながら生活の糧を音楽に見出すしかないバッハは、ザンゲルハウゼンにある小さな教会(生地アイゼナハもチューリンゲン地方に位置する)でオルガン奏者の職に就くことを志し、その採用試験においては高成績を収めたと言われております。

しかしながら、チューリンゲン地方の領主の陰謀により、残念ながらその地位を獲得することはできなかったのでした。

納得のいかない不審な思いで終わった採用試験の結果でしたが、それでもバッハ毎日ひたすらオルガンを弾く時間を持ち、自己鍛錬とも言うべき練習に励みました。

臨時の教会オルガン弾きをしながら、苦しいながらも何とか生計を立てていくしかない厳しい日々が続いたのでした。

これは幼少期から、数々の試練(父母、兄弟との死別、苦学生であった生活等)に耐えなければならなかったバッハの生い立ち、生活環境において養成された気丈さによる賜物であると考えられます。

またそのような環境が今日世に知られている、バッハ独自の音楽を創作するうえでのエネルギーの根源になったものと思われます。

バッハの生涯「新しい生活の始まり」(リューネブルク編2)

バッハの生涯「新しい生活の始まり」(リューネブルク編2)

(前ページバッハの新しい生活の始まり(リューネブルグ編1)からの続きです)

バッハにとって、リューネブルクでの生活は、ベームだけでなく複数の音楽家との交流の輪ができた時期でもありました。

その内の一人であったフランス人の仲間からは、ツェレのフランス音楽に魅せられ、頻繁にこの地を訪れたと言われております。

また、先に紹介したベームは、一時期ハンブルクの教会オルガン奏者を勤めていた際に、オランダ出身のヨハン=アダム=ラインケン(1643年-1722年)にオルガン演奏技法を学んでおりました。

ラインケンは、オルガン音楽の大家として知られており、ディートリヒ=ブクステフーデと共に、ドイツ・オルガン楽派の隆盛を築いた人物でありました。

この頃のバッハは、ベームの影響もあり新しい演奏技巧を積極的に取り入れていこうとする思考があり、世紀のオルガン奏者であったラインケンの演奏を聴く為によくハンブルクへ出向いたと言われております。

時の流れは早く、一時に多くの音楽を吸収し成長したバッハも、変声期を迎える時期になり、教会の聖歌隊をやめざるを得なくなり、主にオルガン、バイオリン奏者の助手になりましたが、なにとか給付金を受け続けることができました。

バッハの生涯「新しい生活の始まり」(リューネブルク編1)

バッハの生涯「新しい生活の始まり」(リューネブルク編1)

1700年3月、バッハは15歳になるとリューネブルクの聖ミカエル協会学校の付属音楽学校に入学します。

この音楽学校入学のきっかけは、前にも触れたバッハの生活環境に関係しておりました。
けして恵まれた暮らしではなかったバッハが、音楽の勉強をしながら聖歌隊で歌を歌うことで給料が支給されるというバッハにはうってつけの好条件であったからです。

また、リューネブルクには、ドイツ出身の作曲家ゲオルグ=ベーム(1661-1733年)が、聖ヨハネ教会でオルガン奏者を務めておりバッハとの交流がありました。

ベームは、鍵盤楽器の作曲家として名が知られており、オルガンのための前奏曲やフーガや、カンタータ(声楽曲)、チェンバロのためのパルティータを作曲しており、バッハにも影響を与えたと言われております。

また、バッハは、オルガンの演奏技巧だけに留まらず、その当時ピークを迎えていたオルガン製作技術にも関心を持ち、教会のパイプオルガンの音質に関わる構造、材質などに至るまで勉学熱心であったと言われており、若い頃の好奇心旺盛なバッハの意欲がよく感じられる一面であると思われます。

バッハの少年期とその変貌

バッハの少年期とその変貌

バッハを取り巻く環境は、8歳頃まで音楽を中心とした恵まれた生活で、家庭環境にありましたが、1693年には、バッハの弟(クリストフ)を失い、翌年1694年5月には母マリア=エリザベートが亡くなり、父アンブロジウスは早々に再婚しますが、1695年にはアンブロジウスまで他界入りしてしまうなど、短い年月の間に、大切な家族達を失い、大きく家庭環境が変化してしまうのでした。

これを境に、バッハはオルガン奏者であった長男クリストフに、兄ヤコブと共に引き取られ1699年の14歳頃までオールドルフにて養育されることになったのです。

しかしながら、長男クリストフは、自身の家族を養っていた上にバッハを含め二人の弟の養育もせざるを得ない状況であり、少ない給料を何とかやりくりしなければ生活できない程で、父の生前とはうって変わり幼少期の生活と比べけして恵まれた経済状況ではなかったとものと思われます。

不幸にもこのような変貌が、容赦なくバッハ少年を苦しめるように襲い掛かりますが、バッハは自分の身の回りに起きるさまざまな避けられない現実に耐えながらも、そのやり場のない気持ちの救いどころを、よりいっそう音楽の世界に求めるようになり、この頃から音楽の世界で自己を見出していこうと考えるようになっていったと思われます。

バッハの生涯とその遺作(誕生と幼少期について)

前回まではビバルディについて、その生涯や楽曲などを中心に詳しく書いてきましたが、今回からは、バロック音楽の中核を築き上げ、数多くの偉大な音楽を生んだドイツの大作曲家「ヨハン=セバスチャン=バッハ」が残した名曲の数々を抽出し、彼の生涯を交えて掲載していきます。

<バッハの生涯とその遺作>
1)誕生と幼少期

ヨハン=セバスチャン=バッハ(以後バッハ)は、宮廷音楽家、また優れたビオラ奏者であった父ヨハン=アンブロジウス=バッハの末子として1685年3月21日にドイツのアイゼンナハに生まれました。

バッハ家は、16世紀から19世紀半頃までにかけて伝統的な音楽家の一族でありました。
先祖代々から、オルガン奏者、作曲家、聖歌隊指揮者、町楽師、宮廷音楽家などを務める家柄で、バッハは幼い頃からこれら数々の先祖達を誇りにしながら、幼少期からオルガンに触れるなどして音楽の育成においては恵まれた環境にあったものと言われております。

バッハの音楽の才能は既に幼少期から既にみられ、1692年、7歳時にアイゼンナハのラテン語学校に入学し、聖歌隊員として活躍し、幼い頃より父からも音楽の手解きを受けていたこともあり、これが後のバッハの音楽活動においての基礎となったものと言われております。

ビバルディの旅立ち、それは永遠の魂となって(4)

ビバルディの旅立ち、それは永遠の魂となって(4)
~最終章~

ビバルディの最期は、あれほどの栄華を極めた作曲家としてはあまりにも虚しいものを感じますが、自己の音楽の追求を続けようとしたビバルディにとっては、聖職者、興行師などのさまざまなしがらみから解放され、ビバルディの人生においてはさぞ喜びに満ちた日々であったのではなかろうかと思われます

また、ビバルディの作品は、最期の時期にはこの世から既に忘れさられ、多くの楽譜は売られるなどして散逸してしまった関係もあり、ビバルディの名前も以後数百年もの長い間、残念ながらけして脚光を浴びることはありませんでした。

時を経て後世になると、ビバルディが眠る共同墓地は取り壊され、現在はウィーン工科大学の構内に変わっており未だにそのなきがらは行方不明ですが、現代になるとビバルディの残した作品の数々は、世界中のあちらこちらで再びその産声をあげるやいなや、またたく間に世の人々の心に大きく波うつインパクトを与えながら広まりをみせ、そのメロディーを誰もが口ずさみ、その口ずさまれた音色を知らない人はいないほどにもなりました。

そして今日では世界中のあちらこちらで演奏される数多くのビバルディの作品は、よりいっそう人々の心に深い共感を与え定着化しているのです。

まさに生前のビバルディ自身が蘇ったかのような面持ちで、かつてのビバルディの作品は復活していったのです。

ビバルディの死後、数百年経つにも関わらず、現代人が今更のようにビバルディが伝えようとしたバロック音楽の神髄に触れる時、人々はビバルディ自身が感じた音楽への喜びに触れることになり、ビバルディの音楽が人々の心に再び蘇り永遠に忘れられることはなくなるのでしょう。

(なお、「ビバルディ」についての記事は、これで終わりとなります。次回からは「バッハ」について徹底的に書いていきますので、どうぞお楽しみに!)

ビバルディの旅立ち、それは永遠の魂となって(3)

ビバルディの旅立ち、それは永遠の魂となって(3)
~ウィーンでの旅立ち~

ビバルディはウィーンに移りまもなく、何の打開策を持つこともなく、当初の志を果たせぬまま1741年 7月28日、ウィーンのケルントナートーア劇場専用の作曲者宿舎にて63歳で永眠となります。
死因は、内臓疾患であったと言われ、ビバルディのなきがらは貧しい人たちが共に眠る共同墓地に埋葬されたのでした。

あれほどの栄華を極めたビバルディが何故共同墓地のようなところで眠ることになったのか、疑問に思われるのですが残念ながら真相は解明されていなくその為か、さまざまな憶測があるのが興味深いところでもあると言えるでしょう。

容易に推察されるのは、自分の墓すら作れなかったということからも、ビバルディの最期においては金銭的に苦しい状況であったと予想されますが、この背景には先に触れたウィーンに移住するにあたって過ごしてきた晩年の生活が影響していると考えられます。

フェルラーラでの一連の騒動により計画したオペラ活動が、不評の末、キャンセルに追いやられ、終いには大失敗となる結末となり、収益どころか多額の借金を抱える身になってしまった事があげられるでしょう。

また新たにウィーンでの音楽活動を志し移住を決意した際にも、生活資金を見出すに当たり、自己の多くの作品を破格の金額でないと売れなかった事情もあり、当初に期待した程の資金源にはならなかったものと考えられます。

また更に、ウィーンでは頼みの綱であった皇帝カール6世に先立たれ想定外の窮地に陥るなど、ウィーンでの生活の実態は、ビバルディが夢見た憧れや華やかさは微塵もなく、当初の思惑とは程遠い現実を受け入れざるを得なかったことが考えられます。

ビバルディの旅立ち、それは永遠の魂となって(2)

ビバルディの旅立ち、それは永遠の魂となって(2)
~プラハとウィーン~

それでは、ビバルディは自分の音楽活動を再開するのになぜウィーンをその新展地としたのでしょうか。

これには、自己の音楽を普及する機会を持ち、自ら上演することを基軸にしたかつてヨーロッパ各地を演奏活動にあけくれていた日々を振り返ることになります。

先に触れたようにビバルディが、1730年に好評を博した歌劇「アルジッポ」は、プラハでの初演でした。
その為、同地にてその際にリュートのための協奏曲と2曲のトリオを献呈しビバルディに大いに交流があったベルトビー伯爵やその知り合いを頼りにプラハへの移住をも考えたとしても不思議ではありませんでした。

ビバルディは1728年に、神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740年)に12曲のバイオリン協奏曲集.作品9、通称「ラ・チェトラ」を献呈し、高い評価を得ていたことも先に触れておりましたが、このきっかけがプラハではなくウィーンへの移住を決意させた最大の根拠になるものと考えられます。

しかしながら、ビバルディの気持ちとは裏腹に、ビバルディの頼みの綱とでも言うべき、ビバルディ作品のよき理解者であったカール6世は、1740年の秋にはこの世を去ってしまったことから、あえなくビバルディの思惑は根底から崩れてしまうのでした。

ビバルディは、ここでもまた大きく失望させられることになり、まるで神に身捨てられたかのような絶望感に苛まされたことでしょう。