ビバルディの旅立ち、それは永遠の魂となって(3)

ビバルディの旅立ち、それは永遠の魂となって(3)
~ウィーンでの旅立ち~

ビバルディはウィーンに移りまもなく、何の打開策を持つこともなく、当初の志を果たせぬまま1741年 7月28日、ウィーンのケルントナートーア劇場専用の作曲者宿舎にて63歳で永眠となります。
死因は、内臓疾患であったと言われ、ビバルディのなきがらは貧しい人たちが共に眠る共同墓地に埋葬されたのでした。

あれほどの栄華を極めたビバルディが何故共同墓地のようなところで眠ることになったのか、疑問に思われるのですが残念ながら真相は解明されていなくその為か、さまざまな憶測があるのが興味深いところでもあると言えるでしょう。

容易に推察されるのは、自分の墓すら作れなかったということからも、ビバルディの最期においては金銭的に苦しい状況であったと予想されますが、この背景には先に触れたウィーンに移住するにあたって過ごしてきた晩年の生活が影響していると考えられます。

フェルラーラでの一連の騒動により計画したオペラ活動が、不評の末、キャンセルに追いやられ、終いには大失敗となる結末となり、収益どころか多額の借金を抱える身になってしまった事があげられるでしょう。

また新たにウィーンでの音楽活動を志し移住を決意した際にも、生活資金を見出すに当たり、自己の多くの作品を破格の金額でないと売れなかった事情もあり、当初に期待した程の資金源にはならなかったものと考えられます。

また更に、ウィーンでは頼みの綱であった皇帝カール6世に先立たれ想定外の窮地に陥るなど、ウィーンでの生活の実態は、ビバルディが夢見た憧れや華やかさは微塵もなく、当初の思惑とは程遠い現実を受け入れざるを得なかったことが考えられます。