ビバルディの旅立ち、それは永遠の魂となって(2)

ビバルディの旅立ち、それは永遠の魂となって(2)
~プラハとウィーン~

それでは、ビバルディは自分の音楽活動を再開するのになぜウィーンをその新展地としたのでしょうか。

これには、自己の音楽を普及する機会を持ち、自ら上演することを基軸にしたかつてヨーロッパ各地を演奏活動にあけくれていた日々を振り返ることになります。

先に触れたようにビバルディが、1730年に好評を博した歌劇「アルジッポ」は、プラハでの初演でした。
その為、同地にてその際にリュートのための協奏曲と2曲のトリオを献呈しビバルディに大いに交流があったベルトビー伯爵やその知り合いを頼りにプラハへの移住をも考えたとしても不思議ではありませんでした。

ビバルディは1728年に、神聖ローマ皇帝カール6世(1685-1740年)に12曲のバイオリン協奏曲集.作品9、通称「ラ・チェトラ」を献呈し、高い評価を得ていたことも先に触れておりましたが、このきっかけがプラハではなくウィーンへの移住を決意させた最大の根拠になるものと考えられます。

しかしながら、ビバルディの気持ちとは裏腹に、ビバルディの頼みの綱とでも言うべき、ビバルディ作品のよき理解者であったカール6世は、1740年の秋にはこの世を去ってしまったことから、あえなくビバルディの思惑は根底から崩れてしまうのでした。

ビバルディは、ここでもまた大きく失望させられることになり、まるで神に身捨てられたかのような絶望感に苛まされたことでしょう。