(前ページバッハの新しい生活の始まり(リューネブルグ編1)からの続きです)
バッハにとって、リューネブルクでの生活は、ベームだけでなく複数の音楽家との交流の輪ができた時期でもありました。
その内の一人であったフランス人の仲間からは、ツェレのフランス音楽に魅せられ、頻繁にこの地を訪れたと言われております。
また、先に紹介したベームは、一時期ハンブルクの教会オルガン奏者を勤めていた際に、オランダ出身のヨハン=アダム=ラインケン(1643年-1722年)にオルガン演奏技法を学んでおりました。
ラインケンは、オルガン音楽の大家として知られており、ディートリヒ=ブクステフーデと共に、ドイツ・オルガン楽派の隆盛を築いた人物でありました。
この頃のバッハは、ベームの影響もあり新しい演奏技巧を積極的に取り入れていこうとする思考があり、世紀のオルガン奏者であったラインケンの演奏を聴く為によくハンブルクへ出向いたと言われております。
時の流れは早く、一時に多くの音楽を吸収し成長したバッハも、変声期を迎える時期になり、教会の聖歌隊をやめざるを得なくなり、主にオルガン、バイオリン奏者の助手になりましたが、なにとか給付金を受け続けることができました。