ペーリとメディチ家について
(前回の記事から引き続いています)
当時のフィレンツェは、人口が6万人を越える大都市になっており、ルネサンス文化の開花地としてあらゆる文化、芸術において多大な影響力を誇ると共に、同地は名高いメディチ家の統治下にありました。
ペーリは、そのようなメディチ家の宮廷音楽家、兼テノール歌手でもあったので、その当時一世風靡した音楽家の1人であったと考えられます。
なお、残念ながらこの<ダフネ>の音楽自体は現存していなく、詳細が分かりませんが、歴史上に浮かび上がる記録が残っている背景には、フィレンツェのオペラがメディチ家などの当時の有力な貴族社会により保護され、高踏な芸術として取り扱われたことによって成立した宮廷音楽が発祥の根源であったと考えられます。
またペーリは、数年後の1600年にギリシャ神話の結末を変更したモチーフにより<エウリディーチェ>を、フィレンツェで初演しております。
この曲は、当時メディチ家の姫とフランスのアンリ4世の婚礼の為に作曲されたものと言われております。
ペーリは、この作品においては、マドリガーレを少々織り込んではいるものの、歌うように語る形式を大幅に取り入れております。
この形式から「スティーレ・ラップレゼンタティーボ」という朗誦様式がうまれました。