(ワイーマールからケーテンへ)
順調と思われたワイマールでのバッハの生活ですが、1717年に事態が急速に変わってしまいます。
ワイマールでのバッハの雇い主であったウィルヘルム=エルンスト公(1662- 1728)が、自由な音楽活動を禁止する規制(イタリア風の音楽を演奏するなどの)を強引に制定する姿勢を取るようになったことが引き金となります。
バッハにとっては、常に新しい音楽を取り入れる機会でもあった唯一の場でもありました。
しかし、これを不服に思っていたバッハはこの規制を遵守できるわけもなく、2度の辞職願いを宮廷に提出するも、挙句の果てに牢獄に拘留されるにまで発展しました。
もともと、このエルンスト公は市民には厳しい統治者でもありましたが、一方ではバッハを宮廷の音楽がとして高く評価していた事実もあります。
それを物語るのが1回目の辞職願いに対してこれを阻止しようと、旅行に行くことを公認するなどして、ある意味自由な活動を認めようとして、バッハの心を引き留めようとした逸話が残されています。
本来、ザクセン地方を共同で統治していたウィルヘルム公の甥エルンスト=アウグストス(1674-1728年)との確執争いが主体となった事態だとバッハも周知していた一面もあったようですがウィルヘルム自身が、自由な音楽活動を提唱していたアウグストスにバッハを奪われたくなかった心境にあったのではないかと思われます。
こうしてバッハは、ワイマールを去り新天地のケーテンへ移住しアンハルト=ケーテン公であったレオポルトの宮廷楽長の座に就くことになったのです。